永遠の生命-アラヤ識(阿頼耶識)についての説明です。
過去・現在・未来と生き続ける、永遠の生命「アラヤ識(あらやしき)」。仏教に教えられるアラヤ識とはどんなものなのでしょうか。
まず、「識」と言いますのは、仏教で「心」のことを「識」と言います。
ですから、アラヤ識とは、私たちの心の一つです。仏教では私たちの心を8つに分けて教えます。現代科学でも、表層心理の下にいくつも心があることが分かっていますね。
しかし、アラヤ識は、心の中の一番奥の心なので、見ようとしても決して見ることはできません。科学ではたどり着けない心、それがアラヤ識です。
アラヤ識の「アラヤ」について説明しましょう。
アラヤは、漢字で「阿頼耶」と書きます。
これは昔のインドの言葉を音標したもので、アラヤは「蔵」という意味です。有名なヒマラヤ山は、雪を意味する「ヒマ」と蔵を意味する「アラヤ」が結びついて、雪の蔵=ヒマラヤという名がついたそうです。
また、アラヤ識は「蔵識(くらしき)」と呼ばれることもあります。
私たちのやった行いは「業力(ごうりき)」という力となって、アラヤ識に納まります。
業力には、縁と結びついて結果を起こす力があり、それがアラヤ識に蓄えられるのです。
また、蔵に入れたものはチョットやそっとではなくなりません。火事が起きて、母屋が焼けても、蔵の中身は無事です。
同じように、アラヤ識に納められた業力も決してなくなることはありません。これを「業力不滅(ごうりきふめつ)」と言います。
私たちの行いは、不滅の業力としてアラヤ識に納まり、そのアラヤ識が過去・現在・未来と続いていくのです。そして、業力は縁と結びついて結果を起こしていきます。
このアラヤ識は、固定不変の魂とは似て非なるものです。仏教では諸法無我(しょほうむが)と説かれていて、永住不変のものは1つとしてありえない、と教えています。そのアラヤ識と無我との関係については、次のページで書きたいと思います。